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特集:浅井三姉妹と彦根のゆかり

小谷城と彦根城西の丸三重櫓の言い伝え

彦根城西の丸三重櫓は実は主人公「江」の生まれた小谷城天守だった!?

彦根ばやし総おどり大会
重要文化財:西の丸三重櫓
平成23年1月からNHK大河ドラマ「江〜姫たちの戦国〜」の放映が始まっています。 主人公の「江」は、江北の戦国武将浅井長政と絶世の美人として名高い織田信長の妹「市」の娘で、三姉妹の末っ子です。 江たち三姉妹がどのような運命を辿るのか気になるところです。
ところで、浅井長政が居城としていた小谷城は、長浜市街から約8q北に位置する小谷山に築かれていましたが、織田信長軍との戦に破れ、落城しましたので、残念ながら、往時を偲ぶ建物等は残されていません。
しかし、落城した小谷城は、実は彦根城の西の丸三重櫓として移築されたという言い伝えが残されているのをご存知でしょうか?
西の丸三重櫓は彦根城の天守の西に位置し、琵琶湖岸からの要塞としての役割を果たしていました。白壁で直角にそびえる大変美しい櫓ですが、小谷城の天守であったとの言い伝えが、小谷にも彦根にも残っており、大変興味がそそられます。

小谷城本丸跡

小谷城本丸跡 小谷城本丸跡にある看板
鐘の丸ともいう。
石垣をめぐらした約十二米の高所に約三十米に二十五米の広さをもつ。
落城寸前まで城主長政が居住していた処である。
彦根城西の丸三重櫓は元小谷城天守と伝える。

彦根城西の丸三重櫓(重要文化財)

彦根城西の丸三重櫓(重要文化財) 西の丸三重櫓にある看板
西の丸三重櫓は、本丸に隣接する西の丸の西北隅に位置し、東側と北側にそれぞれ1階の続櫓を「く」の字に付設しています。
小谷城天守を移したと伝えられている三重櫓には、天守のように装飾的な破風などはありませんが、櫓全体を総漆喰塗りとし、簡素な中にも気品のある櫓です。
小谷を訪れられた後、彦根城の西の丸三重櫓に訪ねてみていただくと、お江さんたち美人三姉妹に出会えるかも知れません。
そうしたことに思いを馳せ、歴史浪漫に浸ってみてください。
大河ドラマの楽しみ方がまた一つ増えるかも知れませんね。

彦根城天守は、次女「初」が嫁いだ京極高次の大津城天守!?

世界遺産暫定リスト登載・国宝となっている彦根城の天守は、京極高次の大津城の天守を移築したとする説が有力です。大津城は関ヶ原合戦に際しては、高次は妻「初」とともに3,000の兵で篭城し、西軍1万5千(一説には3万7千)の兵を釘付けにしました。
 天下分け目の関が原合戦の後、井伊直政が佐和山城主となり、その後、天下普請で彦根城が築かれます。徳川家康は、大津城天守を「めでたき天守」として彦根城築城の際、天守として移築させたといわれています。

近江1,300の城の集大成!

歴史の専門家によると、江戸時代までに近江には、およそ1,300にも上る城が築かれたとのことですが、天守や櫓などの建造物が現在も残っている城は、彦根城ただ一つです。
戦国時代には、攻め落とした城は、次の城を築くために、部材等が使われていったといわれており、彦根城は、いわば近江1,300の城の集大成ということができるのではないでしょうか。
実際、重要文化財の天秤櫓は長浜城、同じく太鼓門櫓は佐和山城から移されたとの説が有力であるようです。
また、宗安寺の赤門は、佐和山城の城門と伝えられています。
(※宗安寺は、江戸時代に朝鮮通信使の正使の宿泊場所となったお寺で、大坂の陣で活躍した木村重成の首塚も残されています。)

彦根城 太鼓門櫓 彦根城天守 天秤櫓 佐和口多聞櫓他 宗安寺赤門
彦根城
(各画像をクリックすると大きな画像が見れます。)

三姉妹の面影を今も残す彦根城西の丸三重櫓や、数々の戦を彷彿とさせる彦根城に足を運んで戦国ロマンを感じてみられてはいかがでしょうか?皆さんのお越しをお待ちしております。

戦国の美人三姉妹!?

さて、浅井三姉妹ですが、長女の「茶々」は、豊臣秀吉の妻となり、子どもに恵まれなかった秀吉の世継秀頼を生んでいます。次女の「初」は京極高次の妻となりました。そして主人公の「江」は最後には徳川家康の子秀忠に嫁ぎ、3代将軍家光、後水尾天皇の妻となる娘和子を生みました。

戦国の美人三姉妹
(社)長浜観光協会
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三姉妹がかつて暮らした小谷城跡

三姉妹がかつて暮らした小谷城跡

美人三姉妹が過ごした幼少期はどんな時代?

浅井氏が滅ぶ前までの近江は、北方の京極氏・浅井氏と南方の六角氏が勢力を振るい、京極氏は上平寺城(米原市)、浅井氏は小谷城(長浜市)、六角氏は観音寺城(近江八幡市)を本拠としており、「境目の城」である佐和山城をめぐって衝突を繰り返していました。
 小谷落城後、近江各地は、さらに天下取りを目指す戦国武将たちの覇権争いの場所として、群雄割拠の時代を迎え、織田信長の安土城や羽柴(豊臣)秀吉の長浜城、明智光秀の坂本城、羽柴秀次の八幡山城、後に石田三成の居城となった佐和山城、京極高次の大津城等、歴史に残る数々の城が築かれていました。

石田三成と佐和山城の悲劇

佐和山城は秀吉の時代にも、天下統一のための重要な拠点として位置付けられ、重臣である石田三成が封ぜられました。 三成の支配によって、佐和山城は城下とともに整備され、一説には、五層の天守を備え、松原内湖には松原まで百間橋を渡すなど、「三成に過ぎたるもの」とまで言われる名城となりました。秀吉亡き後、三成は、天下を狙う徳川家康との対立を深め、上杉景勝・直江兼続らと密かに挙兵の計画を立てます。家康が諸大名を従えて上杉家の征伐に赴いたのを機に、三成は挙兵を決意し、慶長5年(1600年)9月15日、関ヶ原で家康ら東軍との戦いが始まりました。三成ひきいる西軍は、味方の裏切りにあい敗れてしまいます。
佐和山城も東軍の攻撃を受けて落城し、三成の父・正継を始めとする石田一族の多くが討死しました。三成は湖北に逃れますが、ほどなく捕縛され、斬首されました。三成の死後も、佐和山の領民はその遺徳を偲んで地蔵などを築いてその霊を慰めたといいます。
天下分け目の関が原合戦の後は、家康にその武功を認められた井伊直政が佐和山城主となり、その後、天下普請で彦根城が築かれます。佐和山城自体は、井伊直政の死後解体され、戦国時代の数々の戦いの中心になった名城もその歴史に幕を閉じることになりました。


佐和山城跡

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